昭和五十四年八月二十九日 朝の御理解

 御理解第六節 「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ」


 天地を狭くする、また、私共が住まわせて頂いておる世界、人間の世界を狭く窮屈にする。それでは天地の親神様のお心に惇る、神の広前は、世界中であるぞと教えられますように、これは世界中という事は、これは天地全体の事でしょうけど、分かりやすく世界中と、世界とは地球上のこと。ですから、そういう広い神様の懐の中に在る私達ですから、いよいよ広い、そして自由無碍な世界に、私共が住まわせてもろうて、一切を有り難し、一切を神愛と悟らせて頂いて、それこそ広々とした世界にすみたい。そして、初めて神様と合楽しあえれる世界というのは、そういう世界だと私は思う。
 教祖生神金光大神の世界、それは、そういう広々とした世界で、自分で自分の世界を狭くする宗教、教えがございます。いやいっぱいです。いや金光教以外の宗教はまずはそうなんです。あ-してはならぬ、こうしてはならぬと言ったような、勿論人間としてですよ。そりゃ、まあ一切が神愛であり、お恵みというても、人を殺したり、または、人の物を盗ったり、それはまた別ですけれども、兎に角一切が神愛、またそういう過去を持った人達でもです、例えば人を殺したり、人の物を盗ったりと、いうような、そういう過去を持った人達でも、救い上げて頂ける道なんです。お前は過去にそういう事をしたから罰をあてるね、またそれが罪になって今日の難儀があるぞと、いうような事を教祖様は、天地金乃神様からお受けになっていない。只、そういう罪とか、罪を犯すとか、また人の物を盗るとか、極端なそういう悪い事というような事をです、した者は自分自身の心、いうならば、良心の呵責によって苦しむだけであって、神様はそれに罰をあてよう等という神様ではない。
 広いでしょう。罰をあてると言うのでなく、自分の心が自分をいよいよ悪人にしてしまい、自分をいよいよ窮屈な、自分を悪人にしてしまい、自分を窮屈な、いよいよ恐れおののいた生活に、自分が入って行くのであって、一つの悟りがそこに開かれ、そこに一つのヒントが与えられ、そこから、建て前との人間として、こういう事をしてはならない、けれども本音の中にはやはり、それをそうせずにおれないと言うもの、その本音と建て前が見事に、信心の教えに依ってコントロ-ルされる。そこに罪だと思っておったものが神愛だと分かり、私は、教祖の神様の御信心というものは、総信者が総生神をめざす事だと。
 生神とは此処に神が生まれるという事であって、この方ばかりが生神ではない。此処に参っておる者も、このようなおかげがうけられる、という生神とは、聖人または聖のようなものではない、そういう道ではないと言うことです。聖人、聖と言われる人達が、尚私共の過去の世界にはありました。確かに、けどそれは千人、万人に、それこそ一人おるか、おらぬか分からない位な事であって、私共はそういう真似は出来ません。けれどもね、生神への手立てと言うか道というものは、お道の信心を頂き、特に合楽理念を以てするならば、誰しもが、生神をめざす事が出来るのです。聖人、聖の道ではない。もうそれこそ大衆、皆がそれこそ子供でもわかり、なそうと思えば誰でもなし得るのが生神への道です。一足飛びにはなれません。それが、一分一厘づつ生神への道を、お互いが歩かせて頂いておるのが、金光教の信奉者だとそう思います。
 だから、その精進がなかったら、生神へという道は勿論、人間が人間らしう生きる、それを例えば、あれは誰の言葉ですか、孔子の言葉ですか、「小人閑居して不善をなす」と言った言葉がある。もう私共は、皆小人なんだ、小さい人間なんだ、だから不善ばかりしておるのだ。けれども、教祖金光大神はその不善の中に、尊いもの、有り難いもの、いや不善ではない御恩恵だ、お恵みだとして受けぬかれた方なのです。そこん処がね、今日の御理解の大事なところです。畑で肥をかけておろうが、と言うておられるのです。どんな、例えば汚い事をしておろうが、汚い事をしょうがです、それは、小人だから不善をなすのかと言うと、その不善はない、神様のお恵みなのだ、神の中を分けて通りおるようなものだ、どこで何をし、何を行っておっても神様のおかげなんだ。
 そこで合楽では、すべての事に御の字をつけて、と言うふうに言われるんです。あ-もう、こげな汚い事しょるけん私のごたる人は助からん、と言うような信心ではないということね。そして私は、教祖の神様とてもやはり小人だということ。小さい人、不善をなす、なら、教祖が不善をなさったかと言うと、不善、ある意味あいで言うと、我情我欲で生きられた四十二年間であったと言うこと。少しでも儲かるように、少しでもよい田園が出けるように、それこそ人が休んでおる時でも、仕事を一生懸命、まあいうなら財産をつくっておいでられた。もう貧農と思われるような家庭から、村で有数の財産家になっておられますもんね、わずかの間に。それだけ、人より一倍の働きをなさった方ですけど、少しでも広げよう、勿論その内容の中にはね、そりゃまた、私共の真似の出来ない美しい心を持っておられたでしょうけれども、その美しい心が皆内にあるんだよと言うこと。
 生神になられる、生まれた時に、もう生神になられる性根というものは頂いておるんだよと、それは柿の種を二つに割ればもうすでに芽があるように、開けてみれば生神である私共も、それを例えば、四十二の大患以後の御信心によって、いうならば、神様からいろいろお知らせを頂かれるようになり、今まであらゆる聖者、徳者が説いてきたその事とは違った、超越した、例えば前々のめぐりで難を受けおる、というその難の実体をも、お前は人を殺したから物を盗ったからと言うものじゃなくて、それこそ、天地の道理も知らず、天地の働きに不平を言い不足を言い、自分の物でもないものを自分の物かのように思うておる、そういうものが難の元になっておるといわれる程しに大きい。
 だから、私共天地の大恩を分からせてもらえばです、子に孫にまでも繁昌の道が開けると仰しゃる。どうでも天地の大恩を分からねば、その天地の大恩の中にはです、私共が今まで不善と思っておった中におかげを悟り、そのおかげの中にはそれこそ、神愛であると分からせてもらい、御の字を付けずにおれない。いうなら、畑で肥をかけておろうがです、どんな汚い事をしておろうがです、その中に御礼のいわれる心の状態が育っていくと言うこと。
 もう三十年も前でしたか、椛目の時代に近藤という人が山本から熱心に参ってきてました。今おりませんけど、その方の叔父さんで第一回の帝大を卒業されたもうお爺さんで、年を取られた方でしたけど大変有名な方でした。あの、終戦後に山本の観音様に全部吊り鐘なんか献納しましたでしょう、だからなかったんです。だから、その吊り鐘を献納されたお爺さんでした、仲々偉いお方でした。
 それを甥の近藤さんが、椛目、椛目というて参ってくるから、どういう事を言わっしゃるかと、と言うて聞かれた時に、これをおっちゃま読んで下さい、と言うて第一回に出来た御理解集がございます、それを読ましたら、それを見てからびっくりされたんです。この人はね、宗祖、教祖的な人だよと言わっしゃった。でなかったら、こういう事は普通の勉強では言えない。そして合楽に、こちらに居られる間熱心に参って来られたが、あちらの宅祭りの時に、あの時分は宅祭りといえばもう三味線、太鼓を入れて賑わいましたよね。後日、だからその様子を見てから、あの近藤さんが言われること、私を評して言われる事がね「神様都々逸を歌わせ給う」と、私はそれが今に忘れられません。
 金光様の信心とはそれなんです。神様都々逸を歌わせ給う、そういう信心なんです。やっぱり、頭の良い人は哲学のもういっちょ向こうに哲学があって、ならば、なからなければこんな表現は、私は出来ないと思うです。金光様の信心はそうです、だから聖者、聖の道ちではない。どこまでも生神への道だと。その生神様は、三味線を弾いたり歌を歌うたり、酒を飲んだり食べたり肉食をしたり、という様な生活の中に生神への道を只一筋に、それから後三十年間私は歩かせて頂いて今日にいたった。
 私は先日お夢を頂いたんですけども、もうそれこそ、とてつもない大きなお不動さん、兎に角、何と言葉で言いようのない程しの、お不動様がお祭りしてあって、それに対するお夢がね、半分出来かかっとる、というお知らせを頂いたんです。もう兎に角日本一じゃない、とにかく世界一のお不動様だろうとこう思うです。そのこ事を頂いて、いろいろ私は思わして頂くのですけど、今日改めてその事を考えさせて頂いて、神様は、いうならば世界一の不動の信心というかね、世界一の不動の信心を目指せという事ではなかろうか、でなければ、世界はこの天地金乃神様のお懐だと言われる、その世界の隅々までも、いうならば信心を広めていこう、ためには、いうなら世界を自分の懐の中に、世界は和賀心の中にあると言うような信心、そしてそれに伴うところの、言ったり思うたりするだけではない、それだけの一っの信心というか、確信というか不動の信念、それを目指していけよと、私に言うておられると思うのです。
 その為にはね、いうなら世界の隅々にまで広げていく為に、そげな事したら信心じゃない、そげな事はいけないよと、それは食べちゃいけないよ、飲んじゃいけないよと言うような、狭くするような、いうなら自分の住んどる心の世界を、狭くするような教えでは徹底して行く事は出来ない。それで良か事でん悪か事でん一緒んだくりに、と言う清濁併せ呑むと言ったような事でもない。濁と思うておった中に神愛を見出だす、濁と思うておった中に濁ではないね、だから聖者、聖の道ではない、生神への道、だから、生神の道は誰でも目指せば誰でもが、いうなら教祖さまは、この方ばかりではない、皆もこの通りのおかげが受けられる、という程しの道なんです。
 金光教の見方というものわね、そういうふうに、そんなら何をしてもよいかというと、今も申しますように、人を殺したり人の物を盗ったりね、悪というその悪の中でも、悪ではないものがあるけれども、私共が何と言いましょうか、過去の学問とでも申しましょうか、過去の宗教と申しましょうか、過去の道徳的な見方をすればそうですけれども、合楽で説かれるところは道徳ではない、それに超をつけて、超道徳的だと言われるのも、そう言うところなんです。今日、私は皆さんに、畑で肥をかけておろうが神の中を分けて通っておられるような、歩いておっても神の中を分けて通っておるような、神様の中にある私共なんです。だから、どういう場合であっても神様に有り難うございますと、言えれる心を作って行くことなんです。
 昨日は、中川建設の先代いわゆるお母さん、お母さんが熱心に櫛原教会で、久留米の石橋先生の御時代に信心をなさっておられました。それが或る事情で信心が途断えてしまわれた。その方の三十五年の式年祭が此処で行われました。神様にその事の御礼を申させて頂いとりましたら、それが鑑札のない自転車、昔は自転車に鑑札があった。鑑札のない自転車から、立派な大きな自動車に乗り変えられる様子を頂きました。やっぱり、それこそ霊の世界と言うものは、もう本当に難儀を、人間が難儀を難儀の中に、当たり前のように思っておるのがそうです。なんじゃい、かんじゃい、まあ地獄の中に落ちておっても、その地獄が、あ-此処があの世と言うとこばいの、と言うとこばいのう、と言うあの世があったからこの世と言う、あの世と言うところは、こんな難儀なとこばいのと、言うてそこから助かろうともしない。
 それは人間の世界だってそうでしょう。もうこの世でこの位の事はあたりまえ、そして一生終わってゆく人が沢山あるのと同じ様に、それこそ悟りを開かず分からず、もう、ウジャウジャした世界に住んどるのが先ずは殆どでしょう。けれども、金光様の信心を熱心に頂いておられた、まあ、いうならば自転車に乗って行かれとるような分かり易く言うと、けれども鑑札がないから、ビクビクして通っておられたと言うような霊。まあ、そんな事は申しませんでしたけれども、私はそう頂いたんですね、それこそ茨の道という事を申しますけれども、もうそれこそ行こうと思っても通れないような場におる霊が、どれだけあるやら分からんのです。
 人間の世界だってそうです。だから茨の道ではない、自転車でも行けれる様な道を歩いてきて、三十五年のお祭りがありましたら、昨日のお祭りを境に自動車に乗替えるような、そして私が頂きましたのは、鯛なんかも大祭の時のような鯛でした。鰤と、分かんなさらんもんですからね、そういう、とにかく盛大にと言うつもりで買うて来とんなさるのですから、こう絞ってやっとかっとお三宝にのるようなでした、だから実に盛大でしたけれども、私が御心眼に頂きますのは、そげな事じゃなか、ここの大祭の時のような素晴らしいお供えがね、ありとあらゆるお供えが御霊前にしてある。ところが不思議な事に、三宝に三つの穴があるのが、こちらに見える様に供えるのがお三宝、それが反対にお供えしちゃる。それは、どういう事かというと、人間の方にお供えしちゃる。「今の中川建設の繁昌と言うのは、そういう先祖のおかげで、今日の中川の人間の幸せの様々のものが足ろうておる、というようなおかげを頂いておるのが、中川建設の今の様子ですよと、だから、これをまた貴方が、子にも孫にも伝えて行く為には、貴方がまたしっかり信心の徳を積んどきなさらにゃいけんですよ」と、いう話をしよりましたら話し半ばに、「先生それがね、母が亡くなる時に、私がこの広か絶対繁昌するように霊ながら働く」と、言うて亡くなられたそうです。だから、そういう働きがね、今の中川建設に現れとる。そりゃ思いますのに、どうしてこげんうちだけおかげ頂くじゃろかと言うごと、おかげ頂いてきたんです。私は凡くらで何にん分からんとに、どうして人が信用がこうして集まってくるじゃろかと、私は、今でん不思議でたまらんと言うて話し半ばにそう言われるんです。
 ですから、話がちよっと横道に入りましたけれども、信心の徳を積む、という事はどういう事かと言うと、あの、生神への道を進む以外にないということ。そりゃとても、生神でんなんてんならんでんよかとか、とても、そげな事は出来んとかという、それは、私共が生神様への道をです、それこそ聖者、聖のように思うとるから出来んのです。聖者、聖じゃない、聖者、聖というのは、それこそ何万人に一人位おんなさったか知れんけど、私共はどこまでも、「小人閑居して不善をなす」小人なんだと、その精進が人間の殆どなんだと、その殆どの人が助かってゆく為に、金光教の広い深い、それこそ間口の広い信心でなからねば助かり様がない、そういう助かりを、まずは、私共が頂かなければならない。知らなければならないと言うことです。
 そして、私共が悪と思っておった、罪と思っておったものは、罪でもなからなければ悪でもない。むしろ御礼を申し上げねば、むしろこんな汚い事をしてと思いましたけれども、これは汚い事ではない、御恩恵であるとして、御の字をつけて頂く心の状態が、心の中にコロコロと有り難い、有り難いで、受けていけれる心の状態を開くという事と、そういう事を知るという事なんだ。勿論です、いうなら人間としての生き方ね、人の物を横取りするとか、または殺すとか、傷付けるとか、と言うことは許されるかも知れませんよ、これは許されると思わなければいけません。その証拠に殺人罪を犯した、泥棒をした人でも、お取次を頂いて助かっとる、と言うような事があるでしょうが、だから、私共はその罪の意識とかね、穢れの意識と言ったようなものを、なくしていく事のために信心をさして頂く。あ-私はこげな汚い事をしょるけんおかげ頂ききらん、と言ったような事ではおかげにならんです。
 まず、心の中にそれこそみ教えを頂いて、あ-今まではこれがお粗末であった、御無礼であると思うておった事も、それは、むしろ御礼申し上げねばならなかった事を、分からして頂くという事がです、道を歩いておっても神の中を分けて通りおるようなものだ、ともう神様と一つ一体なんだとね。それを教祖様は「神人」とおっしゃった、神、人とおっしゃった。だからそれを合楽では「あいらく」とこういう、神様と人間とか合楽しあえる、喜びあえれる、そういう中から生みなされてくる、限りないおかげに浴していけれる信心である。
 まあ今日の事は、まだ大変言葉足らずです。そういう信心を皆さんが、縁を頂いておる事を分からせてもらう、自由自在な有り難いおかげ頂ける心の世界を、開いていかねばならないと言う事でございます。私共は、確かに孔子が残した言葉だと思いますけど、「小人閑居して不善をなす」部類の私共であると言うこと、そして私共は小人なんだ、小さい人間なんだ、けれどもね、不善と思うておったその不善は、不善ではない神愛の現れだと、開けて見れば「愛」なのだと言うことを悟らしてもらう時に、大人いうなら聖者、聖以上の素晴らしい世界でなくて、おかげの世界に住む事が出来るのですよね。
どうぞ。